以前私は、大理石彫刻を制作する時の参考資料・・・・・・人の頭部の造形を深く理解する
ために骸骨の石膏模型を購入し参考にしていた。
ある時、西方の某国から来たD嬢の肖像彫刻を制作中、彼女の顔に骸骨を突き合わせて、
トップライトを当てて観察した。筋肉や脂肪や皮膚にカバーされているとはいえ彼女の美しい顔に骸骨が浮かび上がった。
1998年 10月 旧アトリエにて。
石膏骸骨はあまり利用されること無く棚に置いたまま埃をかぶっていることが多かったが、
特に明確な目的が無いまま、石膏骸骨をシリコンゴムで型取りして、何か作ろうとした。
石膏でいろいろと試行錯誤・・・・・・・・緩めに溶いた石膏を石膏作品に吹き付けてみたり、
わざと雨ざらしにしてみたり等をしていた頃のことである。
2002年頃 旧アトリエにて
私は日常生活・・・・家事とか、草刈とか、アルバイトに行ったりとか、の用事をしながら
時間をひねり出して作品を作っているので、あまり長時間制作に没頭できないが、
石膏作品の場合、石膏の硬化とか乾燥のための時間に間が出来たりするので、
結構用事をしながらでも制作もできてしまったりする。
作品のアイデアやインスピレーションも時と場所を選ばずに降りてくるので、制作の他にも
何か別の事をやっていた方がいいのだ。
2008年 旧アトリエにて
作品にはその作者の人格が投影される・・・例えばモデルの顔を作っているつもりでも、
自分の顔に似る傾向がある。
この石膏骸骨制作にも、その同様の傾向があるようだ。
私はこの制作を始める前になかなか手が動かなかったのだが、この辺りを整理すると
私の制作行為を理解できる。骸骨の擬人化というのも変だが、あの世的というか、
私(生者)と、死との接点というか、付き合いというか。そういう感覚がこれ以降の制作の
基本的心理的背景になっていく。
2008年 旧アトリエにて
まずは怒っているというか、何かを睨んでいるというか、ガンたれている表情にしてみた。
フツーに怖い。"ホラー"である。"デスメタル夜露死苦"である。
ある日の夕方、外から仕事から帰って来て、築100百年の我が家の玄関の扉をカラカラと
開けると・・・長年煙に燻され、黒光りする柱に囲まれた空間・・・そこには猟奇的な
制作途中の骸骨の山。その中の一つの骸骨様が私を睨んでいる、"骸骨がいる生活"。
しかも、わりかし違和感がなかったりする。
もし家の中で"まっくろくろすけ""や座敷わらし"に遭遇しても不思議ではないような気がする。
この家の、私の制作活動への影響も見逃せない。このあたりでデスダンサーが
私のとなりでニヤニヤしていたような気がする。
そういう私が一番怪しい、"未確認歩行物体"なのではあるが。
怖い表情に怯えたり、困っている表情が、想定外に知人に似ていたりして笑い転げたり、と
色々遊んだ挙句、私の直感的にはこれ(画像)がツボかな・・・・・
笑いの表情を強制的に骸骨に挿入するという荒業で、珍妙な物体ができてしまった。(笑)
‘02年のNY滞在中に入手したビーバーの頭骨の石膏型に囲まれ、
嬉しそうな、最初期のデスダンサー。(2003年制作。)
私の手を通して出てきた、この怪しい物体の扱いについて、私は考えた。
笑う「死」。言うまでも無いが、人の顔の表情を形成するのは、筋肉と脂肪と皮膚など
であって、骨格も無関係では無いが、個人性を喪失し、「無」に帰した「死」の象徴としての
「骸骨」。通常、骸骨という物体が語る言語とはそういうことである。
骸骨の擬人化という表現手法・中世ヨーロッパの寓話・「死の舞踏」に通じる感覚を持って
私は作ったのかもしれないが、どうも釈然としないのであった。
私は中世ヨーロッパの住民ではないし、ペスト禍に端を発するマスヒステリアを目撃したの
でもない。
そもそもこの笑う骸骨を作ったきっかけは、私の石膏作品制作技術・石膏との戯れによる、
いわば「副産物」であって、明確な計画や既存の寓話を元に制作したのではない。
私の作品の制作の、大まかなテーマ:「PLASTER INCIDENT」 と同様、これらの
「DEATH DANCE」も、石膏の物質感を利用した表現を志向している。
実際の骸骨と石膏の「素材」はカルシウムという共通項があって(分子構造とかは多少違う
だろうが)、表面のテクスチャーに相似点は見られる。
しかし私はここでリアル骸骨の完全再現を目指しているのではない。石膏は石膏としての
特性を生かすべきだ、と私は思うのだが。ここで重要なのは、私の手の上を通り過ぎた
カルシウムが(つまり、石膏)、私の持つイメージを実体化する、という事である。
骸骨に強制的に表情を挿入するという、「お遊び」的造形にリアル、というか、
臨場感をもたらすのは、石膏の物質感の強調である。
私のお得意の、石膏の表面に石膏を吹きつけたり、水につけて表面をわずかに溶かしたり
といった、水と空気という流体の作用によって、自然の循環というか、
自己相似的構造を私の意志によって生成する。
死=終末・邪悪・闇 といった観念がその本質を直視する事を制限しているとしたら?
と私はモヤモヤ考えるのであった。
肉体という受容体の喪失は、「生」の喜びの終了でもあるし、苦悩の終わりでもある、
と仮定すると、「死」とは自然の循環の一つの作用であって、恐れたり、先延ばしにしようと
努力するのは、いかにも文明人・現代人らしい感覚ではあると思う。
2002年〜2004年制作作品
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2007年制作作品
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© Taiji Taomote 2017